こうしたスペイン人による植民地化の最初の大きな犠牲者はカリブ海島嶼部に広く住んでいたタイノ族であった。新大陸「インディアス」の初代総督であったコロンブスの失脚後オバンドが1502年にその職を引き継いで後、タイノ族の意思とは関係なく彼等は「エンコミエンダ」という制度によって(スペイン人から見て)合法的にスペイン人の支配下に置かれることとなった。 「エンコミエンダ」とは、スペイン国王が先住民を新大陸のスペイン人たちに預け、その外敵からの保護とキリスト教化を委託、その見返りに国王に代わって先住民からの貢納や賦役の徴収を許可するという制度である。金鉱のあったエスパニョラ島の労働力不足を補うため、スペイン人たちは「エンコミエンダ」の権利を行使し、カリブ海の多くの島々からタイノ人を連れ帰り金鉱で酷使してその多くの命を奪ったのである。またヨーロッパから持ち込まれた様々な伝染病によっても多くのタイノ人が命を失った。こうした労働力の不足をスペイン人たちはすぐさま周辺地域やアフリカからの奴隷でおぎなった。 この「エンコミエンダ」はその後の征服の足取りと歩調をあわせて新大陸の広い範囲でその根を下ろすことになる。 「エンコミエンダ」とほぼセットになっていたのが「カピトゥラシオン」と「都市自治体」という仕組みだった。「カピトゥラシオン」は征服の費用を全て征服者たちが賄い、国王はその見返りとしてその征服者にその担当地方の総督の地位とその戦利品収益の5分の4を与えるという請負契約、「都市自治体」とは個別の征服事業清算後に新大陸に残留することを決めた征服者の中から市民団を結成し、市の設立式、市会議員の互選、町の地割り(公共スペース確定と個人への屋敷地や郊外農耕地の分配)等を伴う都市機能を持つ新しい町のことである。 しかし16世紀の半ば以降、こうした制度の普及による王権の制限や弱体化を恐れたスペイン王室は「エンコミエンダ」の中身を骨抜きにするおふれを次々に出し、個別に「エンコミエンダ」保有者の権利を奪い取っていったため、16世紀後半にはスペイン人支配者層の多くは「エンコミエンダ」に代わる制度としての「アシエンダ」経営に次々と乗り出すこととなった。「アシエンダ」とは、他から土地を買い入れ、つまり広大な私有地を獲得し人を雇って都市や鉱山市場向けの農業・牧畜経営をすることであった。こうした巨大な農場経営の横で先住民がわずかな土地を耕す、そうした構造は今日までラテンアメリカ農業に残っている。
さてこうした中、16世紀初めに新大陸に渡った冒険家で、後に先住民への虐待を糾弾し、その待遇の改善に尽力したラス・カサスらの働きかけにより、16世紀半ばには老いた征服者による贖罪行為も相次いだ。 しかしその後も先住民達はスペイン人やその持ち込んだキリスト教をはじめとする文化への帰順と反乱を何度となく、そして長らく繰り返すこととなる。 その一方、ヨーロッパ諸国間の中南米領有のせめぎあいが徐々に激しくなる。大陸の征服や殖民は当初スペインと現在のブラジル地域を取ったポルトガルで占められ、他国はいわば締め出された状況だったが、1620年代にオランダ政府をバックにした西インド会社の私設軍があちこちの地域を占拠しはじめたことをきっかけにイギリス、フランスもカリブ海島嶼部に植民の手を伸ばした。そしてそうした動きは17世紀の後半まで延々と続いた。 18世紀に入ってもペルーでは度々先住民の反乱が起きるなど不安定な状況は続いた。そしてついに1804年の仏領ハイチの独立、そして1811年のベネズエラ独立を皮切りに20世紀初頭までスペインからの独立が相次ぐこととなった。 そして国家としての枠組みということで言えば、ここでスペイン支配はひとまず幕を閉じることになった。
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